走と歩

社会人をいちどリタイアしてまた始めたスロースターターの雑記

見た目を綺麗にすること、について

この4月、転職して九州にやってきた。

九州一の大都市、博多と天神を歩いたけれど、歩いてる人も、ショーウィンドウも、オシャレでピカピカしていて、田舎者の私には、どうにも気後れする道中だった。

ここ2か月くらいダイエットにも取り組むも、もとより食べることが大好きな私、なかなかうまくいかず。自信を無くしかけていたのだけれど、ふと、中学生の時を思い出した。オシャレに憧れるのって、悪いことじゃないよなあ、と。

 

 

中学生の時、合唱大会か何かの打ち上げで、クラスの皆が私服で集まる機会があった。当時の私は、オシャレにまるで興味が無かったんだけど、「こういう場にはそれなりにきちんと見えるものを着ていかねばならない」というのは弁えていたらしく、一生懸命服を選んだ。実際に何を着たかは覚えてないけど、選んだ基準だけは覚えてる。持ってる服の中で、1番新しいやつと、1番気に入ってるやつ。

 

で、ソワソワしながら集合場所に行ったわけだけど、クラスのギャル集団を筆頭に、女子の皆のオシャレなこと。自分の着ている、地味な色合いの服が、急に恥ずかしくなった。その日は1日隅っこで目立たないように過ごした記憶がある。

そもそもが陰キャだった私は、服装という、性格よりももっとハッキリと目に見えるもので、彼女たちとの差を見せつけられ、めちゃくちゃに落ち込んでしまった。結局、自分はどう頑張ってもあの子たちみたいにはなれない、と、自分の価値がまるでゼロかのような、暗澹たる気持ちで帰宅した。

 

家に帰り、父に何となく、「今日、みんなオシャレだった」「なんか恥ずかしかった」ということを話した。被害妄想込みで「笑われた気がした」なんてことを言ったのかもしれない。

それを聞いた父は、やや語気を荒げて

「見た目で人を判断するやつなんてロクな人間じゃない!そんなこと気にするな!」

と言った。

その前の年のクラスで私がいじめられていたこともあり、父はそれを念頭に私を励まそうとしてくれたのだと思う。しかし、それを言われた私は、勇気づけられるどころか、余計に落ち込んでしまった。

オシャレじゃない自分を恥ずかしいと思っただけで、オシャレしてる彼女たちを貶めたい訳ではなかった。もっと言えば、彼女たちみたいに、オシャレになりたいと思っていたのだ。

それを否定されたような気持ちになって、私は黙りこくってしまった。

 

それからしばらく、結局私はオシャレに興味を持たずに育った。人並みに洋服に気を使い出したのは、高校の修学旅行に備えて私服を友達と選んだ時だ。自分に似合う服、今流行ってる服、そういうのを見て、実際に着てみるのは、とても楽しかった。そこから少しずつ自信をつけて今、同年代の子と比べればとてもオシャレとは言えないけど、それなりに洋服も化粧も楽しんでいる。

 

ルッキズム、なんて言葉もあるけれど、着飾ること、自分を綺麗に見せることそれ自体は、すごく価値があることだと思う。美は永遠のテーマだから。

美にこだわりがある人は、自分の思う美を体現すればいいし、そういうのよく分かんないけどとりあえず自分を綺麗に見せたい、って人は、他人の基準にのっかってオシャレしてみるのも悪いことじゃないと思う。それがつらくなったり違和感があったりすれば、自ずと求めたい美が見えてくるだろうし。

着飾るなんて頭からっぽの馬鹿がすること!って考える人もいるかも知れない。(今思えば私の父はこういう考えの人だった)それはそれで、その人が別の軸で評価されればいいだけの話。

 

今年、転職して都会に出てきて、博多駅を歩いてる女の子がみんな細くて可愛くてオシャレで、中学生のあの頃感じた恥ずかしさをまた体験している。

でもそれは、私ももっと綺麗な見た目になりたい!っていう願望の表れなんだと思う。中学生の私はメソメソして諦めたけど、今の私はそうじゃない。

とりあえずダイエット、頑張ろう。